柘榴の玉連(ざくろのたまつれ)

このブログにはたまに小説も混じります。読みたくない方はお戻りください。
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玻璃の盃

さても魂といえばどこにあるとも知れず、ただ人の形をした熱だとすれば、けだるい夏の昼間には、午睡の隙にうとうとと、彷徨い出でてしかるべきもの。彷徨い出でて……入日の照らす飾り棚の上、焔の色した玻璃の盃に休らったのは、あるいはかの女の、魂の彩であったがゆえ。

家が富裕であった頃、女は華やかな少女であった。学問は苦手だったが、振袖を着て弾く琴の音は、いにしえ振りで優雅。肩口で揃えた髪が白い頬に落ちる様は、愛らしい面立ちに陰を添え、若い客人をどきりとさせた。華奢な手が、そのうちの誰に渡されるのか。競って売り込む者もいた。

しかしすべては、零落をする前のこと。少女が女になる時分、邸からは人が絶え、さざめきが絶え、笑いが絶えた。父は金策に走り回り、母はやりくりに苦労して、かの女を顧みることはなかった。ひたすらの無聊。琴の弦を爪弾いても、がらんとした部屋に空しく、長く伸びた髪の重みに沈むかのように女は眠り、眠るたび、魂は体を抜け出した。焔の色の、きらやかな夢。

夏がまだ暑さを残す頃、盃は飾り棚から消え、しばらくは骨董屋の冷たい土蔵にしまわれていた。玻璃が再び熱を帯びたのは、人の手の裡である。女は溺れる夢を見た。甘い酒と、口づけの夢でもあった。さても……魂といえば。魂を買われた女は。

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幸運の猫

「出かけるのだな」
 男は——男の姿をしたものは——そう言って微笑んだ。猫は——猫の姿をしたものは、いや、猫に違いないのだが——しっぽをぱたぱたさせた。見てわかることに一言も費やすことはない。
 人間に言葉を与えたときも、このように大事に。初めは、神の意をうかがう時にしか使わなかったものだった。言葉はどんどん意味を失い、それを与えた姫神すらも溜息に身を埋めるほど。けれどもそれなら私には——男は思った。
「さようならと言ってくれても、言の姫君は怒るまいに」
 猫はとっくに、扉の向こう、鏡の湖の結界を抜け、人の世界に躍り出ていた。男は——鏡の君はその尻尾に、幸運というリボンを結んだ。

 その猫が人に望んだことは、柔らかい寝床と毎日の食事、そして独り占めの愛だった。時には藁の寝床に、煮た穀物。猫は黙ってそれを食べ、こっそりネズミやトリを穫った。大きな獲物を持ち帰り、人に食べさせたこともあった。あるいは絹の寝床に、新鮮な肉。ふかふかの羽毛を閉じ込めた寝台で、抱かれて眠る日もあった。どんな人にも、猫は幸せをもたらした。幸せとは、日差しがほかほか暖かく、猫がくっついて眠っていること。したが邪慳にした人に相応の報いを与えるは、かれが猫であったゆえ。白黒の毛皮を纏うがゆえ。逆説の君の使者である、そが運命のためでもあった。

 その頃、猫はある貴公子のもとにおり、公子が狩りに出かける昼には、位高い遊女のもとにいた。遊女は閉じ込められた昼の憂鬱を猫と晴らし、公子は長夜に猫を撫でた。猫はあちらとこちらに通い、大きな通りを横切るのは、されば、誰そ彼時の薄闇の、紫に光る空の下。公子は狩猟の帰り、供を四五人あまりも連れて、綺羅を飾って馬に乗り。遊女は小女に手を引かれ、付き人が豪奢な傘をさしかけ、また或は楽器を持って、ぞろぞろと歩いて行くところ。四つ辻は彼らを交差させ、その間には猫がいた。
「まあ、わたくしの猫さんや」
「ああ、おれの猫ではないか」
 猫の尾に、幸運のリボンがきらりと光った。彼らは猫を見、互いを見た。白黒の猫はその顔を見て、顔を見て、にゃあとも言わずに走り去った。さあ、それに気づいておれば、あるいは。

 白黒の猫は彼らの末を知らぬげに、路地を通って広場に遊び、鬱屈の目をした詩人に拾われた。しかしこれは、幸運の猫の物語である。

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虎の教祖

徳は知らず、験もしらず。魂として劫は積んだ知恵のある虎がいた。罠をしかけて鳥獣を捕り、餌をかすめた人間を殺めてから、人も食うようになった。弓矢を持った村人に、殺されなんだはかれが運。あるいは人語も解したか。それでもある日大きな手が岩を掴み損ね、大きな足も地を踏み損ねて、瞑目する間こそあれ、谷底にいのちを絶った。

虎の魂が虎の形であるとは限らぬ。人の魂が虎であることも、虎が人であることもあり。冥官は慎重に秤に置いたが、魂を量り損ねて、人間の冥府に送った。

人をいくたり、殺したと罪が量られ、冥王はかれを虎と解したが、人の罰を下し、虎は無間地獄で永劫に食われ続ける人間の亡者を食う罰と言い渡された。冷たい目をした冥府の書記は、仏教の慈悲を懇々と説いた。たわむれに命を殺めてはならぬ。殊に人を食うてはならぬと。虎は殊の外賢かったので、慈悲を解した。ゆえに罰は彼の心を苦しめた。やがて虎は解脱した。そして身を捨てて虎に与えた前の世尊もかくやと、亡者を食った。

間違いが正されたのは、罪を終えた転生の前である。彼は虎の冥府に送られ、生前の行いを褒められた。殺されずに、飢えずに老いて死んだゆえ。彼は否み、いかに慈悲に欠けていたかを皆に説いた。虎の冥王は一つ溜息し、かの不心得の虎に罰を下した。もはや虎であることはまかりならぬ。人として転生するべしと。虎は美しい被毛を奪われ、鋭い牙も、強靭な前足も、太い尻尾もなくなった。ひ弱な体に閉じ込められて、彼は絶望し歓喜した。

人の世に、聖者が現れたのはその少し後のことである。彼はひっそりと歩き、生あるものを決して殺さず、食べなかった。長じて後は、松の実をひとつまみ。涙しながら食うのみだった。人々は彼に従い、虫一つ殺さぬことを誓った。教祖が言う、虎であったころの話というのは、信じかねておるものもあったが。

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返魂香

 男の許婚は川向こうの村の尹家の娘、近隣にとどろく器量佳し。幼き頃より親同士の相決めたことでなくば、もったいないなどと陰口をきく者まで現れるほどの才色兼備。したが口さがない話にも尹三娘はぽってり赤い唇を花びらのように笑みこぼし、手器用に晴れ着の文繍などをこなしつつ、おっとり頬笑んでいるばかり。
 
 さて。男もその年幾度目かの郷試に受かり、祝言の算段もついた、その頃のこと。流行病であっさりと、尹家の娘は惜しまれる暇すらなく逝った。父母家人、近隣の人など及びもつかぬほどの男の嘆き様。些かを通り越してみっともなくも情けなく、励んだ勉学も手につかず、月に亡き人の影を見ると言っては嘆き、ゆかりの事物を傍らにただただ呆けている始末。見かねた男の二親は幾何かの金子を持たせて都へと、師匠筋の人を頼って行かせた。もとより男は寝ても醒めても花の貌柳の姿と同座同道。大路小路を彷徨ううちに、妖しげな場所に踏み入ったよう。弱水を踏む足取りを、道士の装をした男が一人、塀の向こうの桃の上から見下ろした。細い枝木の撓まぬ不思議。一瞬の後、男の前に道士はひらり、と花弁のように飛び降りる。
「ありやなしや。留まっておるものならば逢いたかろうさ」
 方士の言うに、西域の奥山に返魂香という死人を復する香ありと。漢の武帝も李夫人に再会なされた由をつまびらかに聞き、男は勇んで礼金を倍ほど支払い、その足で西域の、名だたる山に分け入った。異境の山野に朦朧と茫洋と踏む処を知らず、百里に漂うという芳香の端に行き当たりはせぬかとただ闇雲に。
「逢いたしの無様。金子で酒でも嗜むとしよう」
 壁面の壷宮に消えた道人の、嘲声わずかも聞くことはなく。

 さて男、求めて深山に分け入るれども、無為にして、蓬髪はだしに痩せ細り、獣道すらも絶え果てた奥山に傷つきながら彷徨す。目にふらめくは死せる女の花の貌、唇つくはまろやかな、甘露のような女の名。ゆくりなく行き当たるとは幻にして、谷に落ち、水に流されて現に還り、咲く花にまた膚のくゆりを重ね重ねて、二とせ目の春。

 天の人ひとり。薄桃にたなびく雲の合間からその様を見て、ふと溜息す。香りかなその吐息の欠片が、通りすがりの風神の抱えた袋に落ち掛かり、開け落とされる定刻に甘く熟して流された。折しも下界は紅葉の頃合。赤く染まった楓の若木の葉に幹に、狭霧に混じってふと留めらるる。爛熟の香。この間三とせ。

 しだいしだいに土塗れ、癒え乾きもせぬ傷痕をまた草で切り、時に腐肉と違えた獣にところどころを喰われなどして膚に人のすべらかさなく、山人と、たまさかに行き逢う者にも怖じ逃げ去られる。獣か人か、男は立って、また時には四つ足で山路を駆ける。もはや人語の口をつく事もない。女の面影は山向こうに沈む赤い夕陽の残映に溶け、女の名は北天に輝く星の名の一つにもなり、もはや見上げるのみのもの。男は山に分け入った理由を忘れた。ただ香り、仄かで豊醇な薫香を故あてもなく求め続けた。もう幾年が経ったのか、否いなと思い泣きながら、男は自分が捜す香の名すらも留め措きせず。ましてや、都で聞いた道士の言葉は、もはや覚えてなどおらず。
 一日、研ぎ澄まされた獣の嗅覚で、男は山二つ向こうの仄かな芳香を嗅ぎつけた。ある白い、秋の季節のこと。欺く匂やかな花たちの甘やかな香りとはそれは違った。悲しく澄んで、どことなく陰々滅々とした冥府から漂い来るような香。男ははた、と立ち上がり、空腹の腹と朦朧と霞む頭を置き去りに、猫科の獣の如くに駆け出した。

 鏡面のような湖の傍、返魂の樹は幹細く、枝しなやかに葉は赤く、五つ手の先をなお裂いて、すらりとひとり立っていた。男はしばらく数歩手前で眺めていたが、やおらその葉を千切り取り、何を思ってか口に運んだ。苦甘い。男はそれを飲み下し、拍子の香に我に返った。そうして慕う人の名を思い起こすべき暇もあれ、喉胸詰めて息絶えた。

 天の人ひとり。薄紫にたなびく雲の合間からその様を見て、ふと溜息す。杏仁型の美しい瞳、ぽってりと薄く開いた甘い唇。仙女、俗界での姓を尹。遼東の人と伝え聞く。

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わが描かれし君

 巨(おお)き月。遠く先細りする途(みち)の、果てなる橋のその先に、佇む影の白、蒼く。五位鷺の妖しい光。したが、影のかたちは人。燐の火に輝く男と見えた。
 絵師である男はきゅっ、と鼻緒を鳴らし。けれども変わらぬ足取りで歩めば、影は動く気配もなしに遠いまま。妖異と思い身構えると、不意、すれ違っている。見交わした目は、真っ白い炎の宿る琥珀の金。
「途を、訊ねたい」
 怖気はなかった。何やら懐かしい心持ちすらした。
「どちらへ?」
 たっぷりの数瞬。男は不意に、凄く笑った。
「花が咲くと聞いたゆえ、こんな所まで迷い出たが。なるほど、これは良い花を咲かせたものだ」
 貝摺の、皎々と白い着流しに、鈍金の細帯は質の知られぬしなやかさ。背ほどの髪を低く束ねて、狂った役者のような出で立ちに、紙一重の凛冽、気韻。
「花? 花など、どこにありまする」
 奥宮に向かう一本途。月明かりの森は深閑と、華やぎのない、薄墨の斎。
「こなたには見えぬのか? ……その目、その指。鳥が、舞うておるのが見えぬのか?」
 男は詠うように言った。そして、愛でるように絵師の手に触れ、瞼に触れた。目と指と。
「真実、見えぬと言うのか? そなた」
 男の触れたところから、冷たい熱が迸り。はっとした絵師が唇を開くまでが瞬息。
「……拙きわざにございます」
 固く言って、伏せた目を、上げようとするとそこには光。画幅から、抜け出したかの五位鷺の妖しい光。白椿。桜、白菊、藤、牡丹。不意の彩、華の乱舞が止んだとき、男の姿も消えていた。不思議に思う心地はなかった。
「見えました。……見えておりまする」
 呟きに、歩を進めれば朽ちかけた橋の鳴る音、夜河のせせらぎ。ふらふらと、流れに揉まれる白い花びら。

  ***

 絵師は、それが癖、唇を薄く舐めて紙に向かった。筆には薄墨。青みを帯びた光は妖しの燐の蒼。描かれぬ先から鳥であった。男は憑かれたような速さで筆を滑らせ、橋を、鳥を描き、狂ったように呻いた。呻いて、いまだ乾かぬ紙を投げ出し、新たな紙に飛翔を描き、水を描き、また足らぬげに投げ出した。夜もすがら。そして精魂尽きて眠った。それが旬日。
 若い絵師には、それまでも、評判高く好事家の、注文絶えずあったことゆえ、どこぞの大家の使いが門を叩いて諦め顔で去って行くこと幾たびか。しまいに主人と思しき身なりの男が踏み入るに小僧ではもはや止め得ず。
「もうひと月もこのような」
 ぼうぼうと散った総髪に、痩けた頬に炯々たる眼。慮外の客に気も止めず。筆は白菊を一輪。やはりがらんとした構図のままに投出し。また白い紙に橋を、月を。
 男はあきれ顔でそれを眺め、投げ出された紙を手に取って、おおと唸った。
「なんという。これはなんという」
 それは真在の美であった。立派な身なりの男が、絵師と同じほど目の色変えて値は幾価でも払う、これをくれと喚くに答えなく。如才ない門下の絵師がふっかけて、色好い返事に落款押すを目前にしても否もなく。
「十金にて売れましてございます」
 誇らしげな声に、振り向きはした。したが何か、思ったものを見いださなんだというように、つまらなそうに目見を戻した。筆先に、描き出さるる菊花断首。それを拾う指先、鋭い鬼の爪。三本の指、途切れた手首。ああ、と絵師は呻き、見つめて、鬼相にて、筆を放った。

  ***

 京師の噂に、のぼるは速く。絹物商が掛軸に仕立てさせた菊花とその絵師の、奇妙と極美を競い。うち捨てられた半紙の反古は、千金の価で商われ。絵師の屋には金が積まれた。そのころ、絵師は獣であった。何がしか、描こうとしてついに果たせぬ何がしかのための狂気であった。彼は墨を摺る手を止めた。水のまま紙に描き、束の間桜を描きだして、枝もろともに散らした。もはや。
 小僧と若い門人は、積まれた金を掴んで逃げた。女中までもが堂々と、一生稼げぬ金を手に、揚々と屋をあとにした。食わせるものもなくなって、絵師はいよいよ落ちくぼんだ。骨と皮ばかりの指であった。もはや、筆すらも握られぬ。
 その頃から、眺めるものあり、虚空に座して、見下ろすものあり。ぎらぎらと輝く目をいとおしみ、狐の運ぶ食物を、狂った絵師の唇に、手ずから運んでやりもした。
「見るが良い。かの君が魅入った者さ。したがその程もなかったような」
 鏡の君はそう言って笑った。男は呻いた。そしてきっと振り向くと、指の先ほどの小さい墨を、指の先ごと硯に押し付け。墨を摺り、指を摺り、滴ったままの指先で筆を握り、やにわに立ち上がると真っ白い障子に赤黒く、鬼の姿を描き出した。そしてそのまま息切れた。
 鏡の君は虚空に立つと、描かれたものに向けて微笑んだ。鬼は抜け出で、橋の先にいた男の姿となって立ち出ると、水筆で描かれた花に触れ、鳥に花に、胡蝶に触れては鮮やかな色を屋に満たした。鏡の君がかの君を、わが描かれし君との名をもって呼ぶようになりし故である。

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雪乙女

 雪乙女は空を映す氷色の髪、冷たい膚はすさぶ風。雪の絶えぬ山の峰にずっと一人で住んでいた。綿菓子のように雪を食み、飴玉のように氷を舐めて。時折は雪をゆく蜘蛛の糸紡ぎ、織り裁ち縫いまた文繍をした。けれども時の、永劫に似たほとんどは、固く固くそしてじっと冷たく、凍りついた瞳を蒼く染め。陽の高きうちは熱を避け、ほの暗く冷えた真夜中の一刻をのみ彷徨った。星を宿した黒い髪して。

 かつて月は、その半月の頃、地上において猫であった。落ちた光の凝ったとも、あるいはやはり淋しくて、半分が逃げて来たとも知れず。けれども月は猫であり、白く長い毛は先蒼く。星の輝く瞳して、ゆっくりと優雅に歩んでいた。雪の乙女は行き遇って、美しい猫を抱き上げた。手の裡の皎い冷たさに、月の他たらぬとはすぐに知られた。雪の乙女はにっこり笑んで、熱の欠如を共に遊んだ。
 猫は雪の上をすばしこく駆け、いかなる温かさもなく跳んだ。雪の乙女もまた駆けて、孕んだ熱に疲れては、月の猫の冷たく舐めるを心地よく。きらきらとした背を撫でて、童女の笑みして楽しく眠った。

 目覚めに月は少しふくらみ、猫は姿を消していた。雪乙女は流れぬ涙を痛く感じた。そうしてじっと目を凝らしては、雪の上に白い姿を探した。
「お月様どこ?」
 月の猫探して、三日の月、雪のうさぎを抱いたが熱く。取り落としてももう遅く。降りしきる雪に埋もれては、駆けることなく跳ぶこともなく、冷たく舐めることもなく。菊のごとくに萎れた白を、雪の乙女は哀しく撫でた。ふわりふわりと魂だけが、桃色にまるく立ちのぼり。月の隣でぷちんと消えた。
「お月様どこ?」
 月を探して、十日月、雪に歩む人抱いたが熱く。雪の下にはただ骸、魂のみが月の上。撫でるべき白き毛皮もなくて、月の乙女は呆然と。印した足跡をそのまま辿って、元のところに座っては、叫ぶかの、刃のごとく、蜘蛛の衣を引き裂いた。
「お月様、お月様」
 風強く、胸裂く吹雪。雪乙女の髪は灰に曇ってまた千々に散り。稲妻の針の貫くときは、燃えるような金に輝くことすら。舞う髪を越えて眺めても、空に月なく、地に更になく。雪乙女は嘆き、風は荒れ、雪は渦巻き、一面の白。猫の毛のごとき白ではあった。

 雪の乙女は十五夜の月、皎々たる光の下、黒い人影に行き遭った。姿はまるで星のない夜。熱い手が冷たい鏡を渡した。月を見つけたければ映せと。
 雪の乙女は探し探して、歩き歩き。鏡を向けたがただ鏡。時折は蒼く光ったが、ただ雪の上に落ちて冷えきった隕石。十六夜の月、半ばの月、眉月をこえて針、糸と、歩き疲れて。月なき夜の星闇夜に、雪より冷たい熱に臥した。
 投げ出された鏡に、のぼり来る新月。銀の面が捉えた瞬間、あたりを蒼に充ち、月の乙女が立っていた。
 月の乙女はなつかしく、愛おしく雪の乙女に触れた。その手は宇宙のごとく冷たく、雪乙女はただ夜の冷たさ。月の乙女は哀しく見上げ、今こそ冷えた魂を抱き、涙すらなく空に帰った。残された鏡は雪に埋もれた。月のない夜のごとき男は、ほんのたまさかそれを思った。

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扇の魚

 その観世音の優艶といったら、何もない堂宇にもう三夜、夜がな日がな、眠ったり眺めたり。賛嘆のかわりに胸挟んだ笛を吹きもした。丈は身の丈。片手がなく、身を飾る珠などはその更にない。衣の木目は乾いて尖り、頬には無数の枯れた穴。仏でなければ朽ち木であった。
 それでも、かの菩薩の優艶といったら。埃の積もった金堂に、敷物を持ち込んで夜がな日がな。見つめ返すものもない夢うつつに三つの夜を、過ごした男の夢に現れ。朝の陽に、目に嵌められた翠玉の落ちたとともに木偶と化した。
 男は立ち上がって、埃だらけの長衣を払い、払いきれずに帯を解くと、くるりと下帯一つの裸で、裏手の井戸に。
 朝まだき。行き交う人はおらぬ。もとより、深山のことではある。集落はこの小さい山の下。奥は修験の行場というが、この破れ寺は入り口にすらなりそこね、道はずれにぽつねんとある。下帯姿で。男は井戸が深いことを知っており、桶を手に、覗き込んでは肩をすくめた。そして草履をつっかけた足を山に向けた。
 はみだした裸足がさして汚れもせぬに、男は一つの池についた。飛び込んで思うさま泳いだ。水は冷たく、深く、池は大きかった。男は岸に戻って身をふるい、さっぱりとした面持ちで池を覗いた。凪いだ水面は鏡となった。ちらちらと髭のはえた痩せた顔。しっかりとした細身の首がしばらくの間ぼんやり浮かんだ。

 その姿を、見るものがあった。そしてさらにその視線を、眺めるものがあった。男は気付かぬまま、破れ寺に戻り、着物を体に巻き付けて、村に降りた。木彫りの観世音に魂は、あったかもしれぬが薄れていた。眼の珠がこぼれたとき、ふわりと抜け出したのかもしれず。またその魂が山へのぼって、水に落ちることもあったかもしれず。それを一匹の大きな魚が、ごくりと呑み込んでしまったことも。

 夜であった。男は旅支度を整え、寺に戻って眠っていた。翌朝には立とうと握り飯の弁当さえも、村で作ってもらってあった。まどろみのうちに見開いた目に、映ったのは金の女。細い身に、重いみどりの黒髪ながく、金色の薄い着物は裾長く、胸高に、朱色の細帯。切れ上がった目はものすごく、化生の女とたやすく知られた。
 男は夢と目を閉じた。女は不意に帯を解き、銀の膚をあらわにし、眠る男の腰に座った。振り向きざま、落ちた衣の下の腕は確かに観世音の優艶。ひんやりとした。
「熱い、熱い」
 せせらぎのように女は言った。
 翌朝。観世音の腕は木偶の優艶。男は、女の膚を重ねてはじめて菩薩に触れた。乾いた、埃の、木のざらつき。覚えず知らず掴みしめると、不意に手の裡で朽ち木が砕けた。男は、数歩下がると、飛び散った木っ端をかき集めようと屈んで。おそろしさのあまり顛倒した。

 白昼である。山に入った村人が、しばらくの涼を求めて分け入った草むらで、魚が死んでいるのを見つけた。池まではあと数歩。腕を広げたほどもあり、鱗は朱金。中天の陽にきらきらと、無垢に輝く魚であった。男は畏れ、手も触れで、山道を、まろびながら村に戻った。
 手に手に箒、あるいは棒鍬。山へ駆け、次に押し寄せたはかの打ち捨てられた堂、そして旅人のもとであった。抗弁もなく男は打たれ、また縄うたれ。砕けた仏を踏んだ男たちにまた叩かれて呆然と座した。村人はそれを引き立て、山へ。

 その後に、立つものがあった。かれは木っ端の間に屈み、金を孕んだ水晶の珠を手に取り、不意に消え失せた。そして、がやがやと村人ののぼり来る間に、死んだ魚に宝珠を示した。魚は女。またいくばくかは観世音。すっくと立って、ふと、自在の眼を後ろに向けた。縛られた男と、男ども。それを取り巻く女と子供。陽は高く、金色の女は後光のように照り映えて。後ろ見もせず宝珠をとると、胸高に掲げた。その光輝。
 村人が目を閉ざした須臾に、金の女は消え、うしろの妖しい影も消え、縛られた男も消えていた。金の魚すら消えており、村人はわからぬままに辺りを調べ、もはや主のおらぬ池に、祭日のごとくに酒を供えた。
 男はといえば、知らぬ道に倒れていた。否、故郷に近い峠。旅のはじめに、行く末を岐神に祈った己が村のはずれであった。男は小祠に額づくと、胸元から取り出した笛を奏で、奏でつづけた。そして、時ならぬ楽の音に驚いた村人がより来たり、白髪まじりの母親が手を触れたとき音絶え、息絶えた。
 祠の奥から、処を借りて、見おろすものは手を伸べた。そして寄りきた魂をほそい指で、魚のかたちに伸ばし、広げた金の扇に受け、唇に淡い笑みを浮かべて、無造作に閉じ、胸に仕舞った。

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神の御県な

神の御県な 御県な 八尋波越えて 遥か

  姫君は小舟に乗って、陸を眺め、沖を眺めて、水を見た。いずくにか定めやはある。陸には高館。追うものは砂地に立って、今にも船を出そうとしている。
 陸に戻れば責め死ぬだろう。水に入れば溺れ沈もう。舟人はもはや目を閉じている。沖に見えるは大きな島影。しかし巌に阻まれて、屍しか流れ着かぬという。
 古老の云うらく、神の御県な。船にては着くまじ、歩行にて渡るべし。と。また、我らが民は歩行にて来たれりと、故地を拝し。
 帆を持つ船が、岸を離れた。姫君は岸を指し、帷子ひとつの真白い姿、手に剣を持ち、珠を懸け、鏡を胸の奥底に。
 舟人はもはや幼子ならぬ少き女を仰ぎ、身砕く海に舟を進めた。波頭は千々に散り、水は冥府の淵に向かい。後ろに速き船は迫り、結い解いた髪は風を受ける。
 荒ぶ風が、轟々と耳を聾した。地を砕くかの音だった。やがて船から叫びがおきた。舟人は姫君を見た。姫君は爛々たる目で水面を見つめていた。舟人は追っ手の船を見、赤く燃ゆる岸を見た。
 姫君はもう一度沖の島を指した。もはや陸は近かった。水は薙いでいた。けれども瞬く間にそれは逆らう力となり、舟人の力を超えて押し戻し、小舟を岩にはりつけた。
 姫君は砕けんとする舟のへさきに立ち、来し方に流れる水を見た。そしてやにわに水に降り、舟人を呼び、白く輝く水を走った。悲鳴を上げる暇もなく、白い筋は道となり、陸へと続く道となり、姫君はその白に融け。
 船の追っ手は躊躇った。来し方の岸では館に火がのぼり、海は島の間に渦を巻き、姫は水に身を投げたかに思われた。しかしその間に波は還り、大波として高波として、帆のある船をひと呑みに、小舟をさらに押し流し、いずれの岸をも浚い流した。
 
 古老の云うらく、神の御県な。船にては着くまじ、歩行にて渡るべし。と。また、我らが姫は歩行にて渡れりと、故地を拝し。

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黒い竜馬

 星を戴く空のごとく、陰の極みの漆黒に、額の白の鮮やかな、馬だったという。黒水晶の澄んだ瞳に、長い睫毛が影を添え、頸は細くとも力強く、まろやかな肩と長い尾をもつ、雌の馬であったのだという。馬としては盛りを過ぎ、生んだ仔は数頭。草原のそこここにたゆとうているのを遠く、眺めている母であったのだという。
 その黒馬に挨拶をして、毎朝露のおりるはずの時分に通りすがる少女は、桶を手に。村に引いた水が枯れ、川が細り、水を求めて遠くまで通っていた。この春は霞まず、梅雨にはすでに炎暑はげしく、夏に夕立すらもなければ、膚は黒ずみ、乾き。それでも桶一杯の水を汲みに、炙るかの極暑を歩み。息を切らしながら、帰り道には汲んだ水を一滴も減らすことのない、そんな優しい少女であった。
 陽は中天に、息を奪い。人馬も問わず。ある日、少女の手はとうとう、減った池の水に届かなかった。いかなる技も、もはや、魚さえ寄り集まって喘いでいる池の水面にはほど遠く。少女は苦しみ、家に待つ弟妹の、父母の、乾いた唇を思い。小枝に縋って細い腕を精一杯に差し伸べた。 
 次の朝。夜の冷気が吹き払われ、呪詛が口にのぼる時分。馬の母に、挨拶をする少女はもはやおらなんだ。同じ日に、草原に食む仔馬が死んだ。かの黒馬の娘の仔だった。
 黒馬は、天を仰ぎ。ひび割れた唇で、ひび割れた嘶きを、歯ぎしりせんばかりに。乾いた躯に自ら鞭打って、狂おしく駆け出した。山へ。龍神のみそなわす、山へ。
 水性の豊かな山は、この乾きの最中にも、一筋の湧き水をそこここの岩の隙間から落としていた。甘い豊かな水であった。けれども黒馬は見向きもせず、ただひたすらに駆け上がった。世にまこと、竜馬のありせば。馬の眷属である竜のありせば。地に、わが娘らに、娘らに水を、雨を降らせよと。山の奥へ、奥へ。息絶えなんとするばかり。水源である洞窟から流れる水に身を抛って、真紅に、願った。
 天に住まいする竜の長は、かの黒馬を見て。雨を司る水のお神にひれ伏し、誠心から雨を乞うた。かの馬は竜馬である。わが眷属のものである、と。
 にわかに、黒雲の湧き出で。かの龍穴のあたりから水気の下界に広がって、轟音。雷の煌めきと共に雨が一滴。水なしの川は濁流となり、地を潤し、狂ったように舞う人と馬の上に降り注いだ。
 雨音の中、稲光に照らされて、竜馬となった母なる馬は天にのぼり、額の星はまことの星と光りはじめた。少女は天にいて、かの黒馬に挨拶をし、その頸をはじめてかき抱いた。
 その弟妹であったという。龍穴に竜馬を祀り、かの母の山に入ってより口にすることのなかった清水を捧げ、神として斎いたのは。そうして今に至るまで、雨を乞うに黒馬を献じ、かの母のごとくに天を動かすことを願い、奉るのであるのだという。


<了>
Tamaki Reiryou

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