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メール・マリーという人

フランス革命の最中、弾圧される修道女たちを描いた、カルメルの中でメール・マリーはそんなにメインの役ではないのですが、とても存在感のある人。

信仰心の強い人ではあるけれど、無邪気なコンスタンスが感性で信仰しているなら、マリーは理性で信仰している、と表現できる。

貴族出身で、この女子修道院のナンバー2。修道会、信仰の原理原則を守り抜こうという意思が強い。亡くなった院長に、情緒不安定なブランシュを託され、一人前の修道女になれるように導いている。修道会の解散を命令されると、信仰を守るために殉教しようと主張する。殉教を自ら求めるのは自利であって、祈りを貫く修道会の本旨から外れる。と主張する新院長と対立するが、やがて納得する。しかしその後、新院長と仲間たちは断頭台で命を落とし、メール・マリーは取り残されるが、それも神の思し召し、という司祭の言葉に生き延び、この次第を書き残す。

フランス革命というのは、簡単に言うと「働かざるもの食うべからず」の世界。祈りの場所として清貧を貫くカルメル会も、その存在意義を否定され、解散を命じられる。

主人公ブランシュは、世界を恐怖と感じていて、自己の無力さを痛感し、カルメル会の規律に存在場所を見出した。しかしその居場所が奪われた時、信仰からも逃げ出した。そのブランシュが、歌い祈りながら死んでいく仲間の元に戻って、一緒に死んでいく──つまり恐怖からの逃亡ではなく、信仰を通して自己肯定に至る、と言うのがこの作品のハイライト。

それに対して、メール・マリーは、実務の世界で生きていける人が、何か間違って修道女になってしまった人。だからこそ、彼女には、ブランシュには訪れただろうテオファニー(神の顕現)の瞬間はなく、真の意味での信仰への目覚めも起こり得ない。それは理性を超えたところにあり、彼女は理性の中で生きているからである。

マリーはブランシュを導こうとするが、その言葉はブランシュの怯える「現実」に属するもの。マリーの言葉はその「現実世界における正しさ」のために、ブランシュをどんどん追い詰めていく。

だからこそブランシュは目覚め、マリーは殉教できない。キリスト教は本質的に「他力」の宗教だから。


カルメルは実話ということになっているけれど、実際にはフィクションの部分も多い。そしてブランシュ、コンスタンス、院長、新院長、メール・マリーが、宗教学や文化人類学的な観点から見て、とてもうまく書き分けられている。そして私はマリーが一番しっくりくる。

とにかく噛まないようにがんばろ。

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