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歌うことへの愛

清教徒が終わって、このブログでは書いておいたほうがいいのかな、と思うことがあります。もちろん病気のことです。

私の病気、エーラス・ダンロス症候群 関節可動性亢進型、というのは、全身の関節が緩く、ズレやすく、傷みやすく、かつ常に痛み(鈍痛と疼痛、そして鋭い痛み)を伴う病気です。これは先天的なコラーゲンの生成異常によって、靭帯や腱の素材が悪いことで起こります。なので、他のコラーゲンが形作っている部分、皮膚や内臓、血管なども脆弱で、その結果全身が虚弱です。治療法はなく、脆い関節をいかに温存するかが焦点となります。なので運動はドクターストップ。オペラは…訊いていませんが、この病気でオペラ歌手を本業とすることは、まったく無謀だと思います。まあ、肉体労働(接客や手書き事務など含め)全体無茶ですし、オペラ歌手なんてそれ以外にも必要な要素がたくさんあるので、そんなことを嘆くことはありませんが…。

ちょこちょこ書きましたが、演技は、まだまだ下手っぴだというのを除いても、ギリギリ未満です。常に余計な動作が入るし、じっとしていることが難しい。だいたいまっすぐ綺麗に歩くことができないし、綺麗に立っていることも、座っていることも難しい。美しさを支えるのは基本的に筋肉です。今回、ベルカント(演技より歌が優先された時代)のセリア(悲劇)のお姫様だから、細かく勢いよく動き回ったりしなくていい。それでいて狂乱役だから、女王様ほどにはじっと腰が据わってなくてもいい。しかも演出さんや共演者の方がみんな、どこでも手を差し伸べてくださったし、何をやるにも、できる?と訊いてくださった。本当に感謝しています。でも、それでもあちこち壊れかけ。

歌そのものについては、ルチーアの後に出ていた顎の痛みは回避できたものの、やっぱり自分の声の質量を、体が支えきれていない部分が多々あります。喉が疲れる前に体が疲れてしまうし、コントロールを失いやすいし。揺らぎのない声、整った響き、正確な音程、精巧なアジリタ、高音と低音。それを叶えるのは、最終的には体幹の強さ。アリア1曲じゃなくて、オペラを1本やるとなると、そこに行きつきますし、それは私には望んでも得られないものです。背筋がついても腰椎が、腹筋がついても膝がついていかない。まあ、本番は気力でカバーできる部分もあるし、もうちょっと、ぐらいは改善できると思うのですが。

清教徒の3幕二重唱終わりに、通常カットされるシーンがあります。その中で、狂ったエルヴィーラは、やっと戻ってきた恋人アルトゥーロに向かって、「あなたのように、みんなが私を見ていたわ。でも誰もわかろうとしてくれなかった。私の話すことを、悲しみを、苦しみを」と言います。アルトゥーロはここではじめて、エルヴィーラが壊れてしまっていることに気がつきます。おじさまに、アルトゥーロに、リッカルドに、おとうさまに、城の人々に、これだけ愛されているのに、エルヴィーラにはそれがわからない。でも、そのわからない気持ちは、私にはよくわかります。「私の命を奪ってください。でなければ愛する人を返して」。ほんとうは許されない恋。愛する歌を返して、と見境なく嘆くようになるまで、恋することができたら、それは本望じゃないかな。恋されるほうの迷惑は、さて措くとして。

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