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情感と言葉

言葉と向き合ってきたものとして、そして歌と向き合ってきたものとして、言葉は決して情感を越えることはないと、情感を伝えることはできないと信じている。あるパフォーミング・アートと向き合った時、それが好きか、好きでないかは私の心の裡に明らかである。けれどもそれを「なぜ」好きなのか、「なぜ」良いと思うのか、語ろうとは私は思わない。あえて言う。それをする人は、自分の情感に忠実ではないのだ。どんなに深い感動も、言葉にした時に形を変える。そして私には、私の感興のピュアを保つことが何より大切なのだ。
私は西洋の歌を学ぶものだから、西洋音楽に基づいた歌を聞く時、もうピュアではいられない。常に分析し、評論し、評価する。その位置はニュートラルではない(ただしそれは聞く時の話で、演じるときはまた別である)。人を情理に分ける時、パフォーミング・アートは根源的に情に訴えるものである。見るものは、言葉を超えたところにあるものを享受するために、知識と教養を措いて(保留して)、ニュートラルな位置で対峙する必要がある。
そういう意味で、パフォーミング・アートは瞬間である。ある時のある場所でのあるプロダクションが、ある状態での私に合致した。根本的には、「好き」はそういう意味しか持たない。私たちは未然のものを「好き」であろうと信じることはできる。しかし、それは見るものにとって、裏切られるかもしれないという、演じるものにとって裏切るかもしれないという恐怖であり、緊張感である。どんなに素晴らしい演じ手でも、死んでしまうこともあれば殺されてしまうこともある(これは比喩であり、事実でもある)。そして見るものである私も、いつまでピュアでいられるかわからないし、ニュートラルのレヴェルや位層を保っていられるかもわからない。
だから、何か/誰かを好きだと言う時、それは表白であり、望みに似ている。何か/誰かを愛していると言う時、それは覚悟であり、祈りである。対するものへ、そして自分自身への。

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