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再録:空腹のヴェルディ

声楽をやっていない人には不思議な感覚かもしれないけれど、ソプラノならソプラノの曲をなんでも歌えるか、というと、そうではない。オペラを勉強していればどんな作曲家のものでも歌えるかというと、そうでもない。それは歌えない、ということではないが、歌うことがふさわしくない、ということである。そこを無理に通すと、真女形が荒事をするような妙なことになる。だから基本的に、歌い手は、自分にふさわしいものを歌おうとする。それは俳優が役を選ぶよりも、更に自由ではない。いくら好きな曲、好きな役でも、合わないものは合わない。レパートリーではないのである。
レパートリーを決めるのは、声の質、流派、そして性格だと私は思っている。
声の質というのは、宝石の種類のようなもので、サファイアのように硬質だったり、エメラルドのようにしっとりしていたり、ダイアモンドのように華麗だったり。それは声の高さーー声域というよりも、どこの音が最も輝いているかーーと、その輝きの種類ーー硬軟による。
流派といった言葉は、便宜で、別に声楽に藤間流、坂東流などという区別があるわけではない。あるわけではないが系譜はある。師匠から弟子に。オペラの発声法には大きく分けてドイツ系とイタリア系があり、体の使い方が違う。それは民族的な、体格や言語そして趣味の問題である。オペラの歴史はそれなりに長く、地理的な分布も広い。そしてそれぞれの作品は、その時代の、その国、もしくはある歌手を想定して書かれている。だから、流派の差は発声法だけに留まらない。様式であり、解釈であり、文化そのものである。
最後の性格というのは、要するにニンに合わない役はやらない、曲は選ばない、ということで、先の二つほどの縛りではないけれど、つきまとうものではある。
さてはて、それで、ヴェルディ。私の声はソプラノの中でも高音域で、最も軽くキラキラした声よりは少し重い。そういう声をソプラノ・リリコ・レジェッロと言ったりするけれど、リリコと言うには、まだちょっと軽い。発声はイタリアのベルカントで、レパートリーはベッリーニ、ドニゼッティのベルカントオペラ。役で言えば『清教徒』のエルヴィーラがど真ん中。と言った時に、たとえば『ランメルムールのルチーア』のルチーアがそれより軽いか、『夢遊病の女』のアミーナがどうか、というのは、はっきりしたものではない。けれどヴェルディは明らかに重い。それは作曲家の性質であり、時代の趣味である、様式的なものから、よりリアルでドラマチックなものが好まれるようになっていったということでもある。理屈はわかる。
ヴェルディの『リゴレット』に「Caro Nome(慕わしき御名)」という軽やかで弾けるような愛らしい小さいアリアがある。けれど、この形容詞の羅列にかかわらず、歌うととても疲れる。それは運動の疲労感ではなくて、ご飯を食べ損ねたようなごっそりした、ひだるい、という言葉がぴったりくる疲労感である。
もちろん、ある意味ではそれは単に、私がこの曲を自分にふさわしいように歌えていないというだけのことには違いない。けれど、いったい何が違うのか。同じように軽やかで弾けるようで愛らしいベッリーニのアリアと何が違うのか。もちろん、分析しようと思えば、理屈の一つや二つ、つけることはできるだろう。けれどそこには必ずわけのわからない何かが残るに違いない。あの人はなんとなく虫が好かない、あの役者の演技はうまいけれど胸を打たれない、といったような。
そんなわけで、残念ながら私はまだヴェルディとあまり仲が良くない(曲が嫌いななわけでは決してない)。「Caro Nome」を歌いながら、何百年も昔の男に「おなかがすいた」と訴えてみる昨今である。(2004/7/19 Mixi初出)

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